「水戸黄門」は、水戸藩の二代目藩主・徳川光圀の「別称」です。
講談「水戸黄門漫遊記」では、水戸黄門(黄門様)は、諸国を漫遊して「世直し」をしていったことになっています。
しかし、実際のところ、黄門様は、江戸と国元とを往復した程度で、諸国を漫遊したという事実はないといわれています。
ただ、「大日本史」編纂のために、水戸藩士の「佐々十竹(さっさじっちく)」と「安積澹泊(あさかたんぱく)」を、全国各地に派遣したという記録は、残っています。
この二人が、「佐々木助三郎(助さん)」と「渥美格之進(格さん)」のモデルになっていると、考えられています。
「水戸藩」で「権中納言(=黄門)」という役職に就いた人
徳川光圀が「黄門様」と呼ばれるようになったのは、どうしてでしょう。
「黄門」は、本来は「役職の名称」です。
中国では、役所の門が、黄色に塗られていたことから、役所の重要な役職の人のことを、「黄門」と呼んでいたといわれます。
日本では、「黄門」に当たる役職のランクが、「権中納言(ごんちゅうなごん)」に近いことから、権中納言に任じられた人のことを、「黄門」というようになります。
徳川光圀は、水戸藩の二代目の藩主で、「権中納言(=黄門)」に任じられたので、「水戸」の「黄門様」、すなわち「水戸黄門」というわけです。
しかし、歴代の水戸の藩主には、「権中納言」に任じられた人が、七人いたとされています。
・初代頼房(よりふさ)
・二代光圀(みつくに)
・三代綱條(つなえだ)
・六代治保(はるもり)
・八代齊脩(なりのぶ)
・九代齊昭(なりあき)
・十代慶篤(よしあつ)
の七人です。
この七人は、全員が、「水戸藩主」で「黄門」なので、「水戸黄門」ということになります。
理屈からいえば、水戸黄門は、七人いたということになるわけです。
このうち、「光圀」だけが「水戸黄門」としてのイメージが強いのは、「大日本史の編纂」という、大きな功績を残したことが、大きく影響しているともいわれます。
大日本史の編纂に当たっては、光圀自身が、全国を行脚したという事実はありませんが、講談、小説、ドラマなどで、光圀が、水戸黄門として、全国を行脚するように描かれることが多かったことから、「水戸黄門=光圀」というイメージにつながったと考えられています。
ちなみに、テレビの番組で、水戸黄門を演じたのは、「東野英治郎」「西村晃」「佐野浅夫」「石坂浩二」「里見浩太朗」の五人です。