日本では、車は、道路の左側を通行する「左側通行」です。
しかし、世界を見てみると、車は「右側通行」という国の方が主流になっています。
日本で、車が左側通行するようになったのには、どんな理由があるのでしょうか。
車の左側通行
車が道路の左側を通行する「左側通行」か、右側を通行する「右側通行」かは、それぞれの国で決められていますが、世界の主流は「右側通行」です。
国の割合にすると、左側通行の国の数は約28%程度なので、世界で見ると、「車の左側通行」は少数派といえます。
左側通行の国:イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、インド、パキスタン、マレーシア、シンガポール、ケニア、南アフリカ、ジャマイカ、バハマ、タイ、インドネシア、マカオ、日本など
右側通行の国:アメリカ、カナダ、メキシコ、パナマ、ブラジル、ペルー、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、スイス、イスラエル、サウジアラビア、ロシア、ベトナム、ラオス、カンボジア、中国、韓国、台湾など
左側通行の国は、歴史的に、イギリスの影響を受けた国が多いという特徴があります。
日本が「左側通行」を採用するようになった理由とは、どんなものなのでしょう。
日本が左側通行である理由
「日本で車が左側通行になった理由」については、いくつかの説があるようですが、その中でも有力とされているのが「武士の帯刀関係説」と「イギリスの制度手本説」の二つの説です。
武士の帯刀関係説
その昔、日本には、たくさんの武士がいて、刀を腰にさしていましたが、多くの武士は右利きだったため、刀は左腰にさしていました。
この武士同士がすれ違う際に、お互いに道の右側通行をすると、左腰につけている刀の鞘が当たりやすくなり、喧嘩などトラブルの原因になることが多かったといいます。
これを避けるため、鞘が当たらないように「道の左側を通行する」という習慣が定着していったといわれています。
この、武士の左側通行の習慣が、車の左側通行のルーツになっているというのが「武士の帯刀関係説」です。
イギリスの制度手本説
世界が産業革命で近代化していく中で、日本は主にイギリスの制度を参考にしながら近代化を進めていきました。
その流れの中で、交通ルールに関しても、イギリスが左側通行を採用していたことを手本にして、日本も左側通行を取り入れたというのが「イギリスの制度手本説」です。
左側通行の明文化
日本で初めて左側通行が明文化されたのは、明治14年(1881年)の「車馬や人力車が行き合った場合には左に避けること」という「警察庁通達」です。
この「警察庁通達」が、日本の左側通行の原点になっているといわれています。
そして、明治33年(1900年)には、「人道車馬道の区別ある場合は左側を、区別がない場合はその道の中央を通行すること」という道路取締規則で「左側通行」が規定されます。
この規定を定めたのは、警察署長なども務めた内務官僚の松井茂氏ですが、左側通行を規定した理由については「特に根拠はなく、なんとなく左側通行が良いと考えたから」と言及したといわれています。
左側通行を規定するに当たって、上記のいずれかの説が念頭にあったかどうかは定かではありませんが、全く念頭になかったということであれば、上記の説はいずれも「俗説」ということになります。
世界でも以前は左側通行が多かった
現在の世界では、右側通行が主流ですが、もともとは、左側通行の国の方が多かったといわれています。
その理由は「右利きの人の方が圧倒的に多かったから」だとされます。
世界中で、右利きの人よりも左利きの人の方が多い国はどこにもありません。
これは、右手で武器を使うことの方が多いということを意味しています。
右手で武器をを持つために、人は、自然と右側に空間を広くとるようになるのだといいます。
右側の空間が広い方が、より自由に武器を使うことができるからです。
右側の空間を広くする → 道の左側を歩く
というわけです。
このため、もともとの世界では、左側通行が主流であったと考えられています。
右側通行はナポレオンの左利きが影響?
左側通行主流から右側通行主流に変わっていったのは、ナポレオンが左利きであったことが影響しているといわれています。
左利きのナポレオンは、武器を有利に使うためには、左側の空間が広くなる「右側通行」の方が都合がよかったのです。
このため、ナポレオンに征服された国が、右側通行に変えられていき、右側通行の国が多くなっていったといわれています。
確かに、フランスに征服されなかったイギリスを始めとした国々は、左側通行の国が多いです。