アスペルガーと、学校・周囲との関係【息子-17】

私たちがフリースクールにシフトした翌日、I先生は「太郎は家庭の事情で突然転校した」と、クラスで説明しました。

学校の対応の悪さ

次男は一年生で、毎日普通に学校に通っているし、私は太郎のクラスのPTA役員を続けていたので、「太郎が転校した」というのは、完全に辻褄が合わないのですが、子供も保護者も含めて、I先生は一切の問答を許さなかったそうです。

私としては、太郎の状態を早く改善してやりたい一心でしたので、クラスのその後についてまで、気に掛ける余裕はありませんでした。

でも、次男は高学年に囲まれて何回か泣かされて帰って来ましたし、更に、我々一家がその後もそこで生活していることに、あれこれと言ってくる人もありました。

後にも先にもこれ一回でしたが、私は学校に真剣に苦情を訴え、早急に対応をお願いしました。

特に、一年生の次男に深刻な被害が及ぼされていることを強調し、学校側の対応の悪さを指摘しました。

この時の学校側の対応は早く、次男を職員総がかりで守ることを約束してもらい、太郎のことについては「人権週間」の学年集会を使って、事実を説明してもらいました。

「太郎は今、学校に来づらい心の状態で、今は他の学校に行って元気を取り戻している。戻って来られるように本人も家族も頑張っているところだから、外で出会ったら声を掛けてあげて。」と、生徒指導の主任教諭が説明したと、報告をもらいました。

中には、本当に心配をしてくれる人もいました。

話しているうちに、興味本位や中傷目的ではなく、真剣に私たち一家や太郎のことを心配してくれているかどうかが分かります。

誠意を持って心配してくれていると信用できた数人に、誠意を持って感謝を伝えたくて「実はね」と、太郎の事情を話します。

その時、私は味方を得られたように思います。

そして、今のところは、信用できる人だという直感が、外れたことはありません。

口外せず、そっと配慮や目配りができる方々です。

想像力の無い人は、アスペルガーのことが理解できない

我が家の場合、学校関係には、太郎のアスペルガー症候群に関する情報は完全に開示しています。

職員室内で、太郎の情報はすべての先生に共有してもらい、より多くの先生に観察と配慮をお願いできます。

大抵の先生が、太郎のアスペルガー症候群を職業的に理解してくれます。(対応の上手下手はまた別の問題として。)

私の友人には、ごく親しい人だけに知らせています。

私の精神的なライフラインです。

太郎のアスペルガー症候群という特徴があることを伝えても、関係が変わらないだろうと確信があった人で、実際伝えても付き合いの変わらなかった人です。

無駄に知らせて、関係が悪くなることだけは避けたいと思い、友人関係には慎重にしています。

アスペルガーに理解のない親族

問題は親族です。

冠婚葬祭や盆暮れの挨拶などといった場は、太郎にとって難しいものでした。

たくさんの人が集まったり、やるべき事とやったらいけない事が絡まりあって複雑すぎるのです。

太郎が小さい頃は「躾が悪すぎる」と、私は親戚中から非難されました。

姑からは、「こんなに落ち付きがないのは、あなたに似たのね。」と言われました。

太郎をちゃんとさせねばと、私が太郎につきっきりで指導すれば、「過干渉」だと怒られました。

太郎がパニックを起こせば、「私の怒り方が悪い」と責められました。

太郎のアスペルガー症候群という診断を伝えても、「病気を作り出した」と責められました。

成長してずいぶん太郎が自分の行動を調整できるようになって、私も太郎もずいぶん楽に過ごせるようになりました。

太郎が少なからず努力をして「普通」にふるまえるようになってきたからです。

すると、親戚たちは、「あんたと医者に、変な病名付けられて、なんてかわいそうな」となります。

味方探し

味方探しの嗅覚は、アスペルガー症候群やその他の発達障害の子供を持つお母さん方が、様々な苦い経験を通じて、じわじわと身につけていくものです。

その苦い経験とは、I先生や私の親戚のような「どうにもこうにも、理解できないタイプの人」と出会った経験を指します。

まるで映画の主人公の目線に入り込んで、その見え方や意識を想像するように、アスペルガー症候群の脳の感じ方を想像することが、支援者(特に母親)には必要です。

自分の見え方しか存在しないと思い込んでいる人は、どうにもこうにも想像できないようです。

決して悪人な訳ではなく、まったくの善意から、理不尽な対応がなされることもあるのです。

オオカミ少年のお母さん

イソップ寓話のオオカミ少年の話は、子ども心に怖かった記憶があります。

「嘘は身を滅ぼす」ことを、子どもに分かりやすく説明できる話です。

羊飼いの少年が、「オオカミが来たぞ!」と嘘をついて村の人たちを慌てさせ、その反応を嬉しく思う。

一回目、二回目はただの嘘でした。

ところが三回目、本当にオオカミがやって来ても、誰も本当だとは思わない。

そして、羊と少年はオオカミに食われてしまう。

少年が嘘をついた自業自得の結果です。

子どもたちよ、だから嘘は怖いのです。

現実問題として、太郎のアスペルガー症候群を周囲のすべての人に伝えることは得策ではありません。

太郎の事情を周囲はほぼ知らないのに、太郎はその中で生活しています。

そして、太郎の問題行動は、周囲が知っているかどうかに関係なく起きます。

「もし、私がオオカミ少年のお母さんだったら、私はどうしただろう?」

小学校で問題行動を起こし続けた太郎が、羊飼いの少年に重なります。

少年は、野原で羊の番をするのがつまらなくて寂しくて、何としても、たとえ間違った方法でも人の注意を集めたくなったのかもしれません。

もし、私が母親だったらどうしたでしょうか。

叱った後に、理由は聞き出せたでしょうか。

もし寂しさが原因なら、なんとか工夫が出来なかったでしょうか。

周囲にどのように謝ったでしょうか。

誰かに相談していたでしょうか。

「あともう一回信用していたら、死なせずにすんだかもしれない」、そういう後悔が付きまとわなかったでしょうか。

オオカミ少年のお母さんは、子どもの行動も、その結果の死も悲しかったはずです。

オオカミ少年のその後

イソップ寓話のオオカミ少年を、アスペルガー症候群など発達障害を抱えた子供と見るならば、現代版での結末や母親の対応、周囲の対応はどうなるでしょうか。

寓話の常として、結末には版や翻訳によってブレがあります。

羊だけが食われる場合、少年だけが食われる場合、羊と少年が食われる場合などがあります。

日本では、羊と少年が食われるパターンが主ですが、ヨーロッパで初期の頃の版では、殺されるのは羊だけでした。

羊が少年のものだった場合、他人の羊を預かっていた場合もあるそうです。

当時、羊は財産でしたから、現代のペットロスを想像して、少年が生き残ってこれを教訓にしたというハッピーエンドと捉えるわけにはいきません。

自分の財産としての収入源を失ったということなのか、他人の財産を損なったが為にこれからその償い(弁償)が発生するのか。

こっちの方が大人としては余程「ホラー」です。

かなりな深読みですが、アスペルガー症候群の太郎が、小学校を卒業するころまでは、これはかなり切実な想像でした。

太郎自身が、アスペルガー症候群としてサポートを得られるのは、高校生活が最後かもしれません。

最近は、一部の大学で発達障害を持つ学生の支援体制が整いつつあると聞いていますので、是非期待したいところです。

いずれにしても、社会人としてサポートが得られる可能性は低いです。

太郎自身が自分をサポートして働ける人になれるように、私はアスペルガーの太郎を鍛えたいのです。