アスペルガーを観察し知識を得て、支援方法をカスタマイズする【息子-11】

発達検査の結果と、太郎との個別面談を踏まえて、児童相談所併設の児童精神科で診断をしてもらいました。

診断は、発達検査での分析と概ね一緒でしたが、一つ付け加えられたことがありました。

医師の診断

太郎君の自閉症スペクトラムとしての程度は、決して軽くはありません。

誰とも話せなくてクルクル廻っているだけの子の程度を「真っ黒、10」、なんでもない子を「真っ白、0」としたら、太郎君は7ぐらいです。

でも、この子は非常に学習能力が高いので、学習を繰り返して社会スキルを身につけて行きますから、将来限りなく白に近づいていきます。

これを聞いて、「一人前の大人になれるんだ」と思い、ホッとした半面、これから先に待っている「太郎が学習して身につけるべき、大人になるための数々のこと」の膨大さに愕然としました。

きっと、他の子よりずっとゆっくり大人になるのだろう、何せ、私が一つ一つをガイドして「学習」を導く必要があるのだから、と考えていましたが、つい最近、それが間違っていたことに気付きました。

アスペルガーの子を、親がサポートできるのは思春期まで

アスペルガーの太郎を私がサポートできるのは、思春期(反抗期)までだったのです。

太郎は15歳になり、反抗期真っただ中。

母親を否定して大人になろうとしている時期です。

私の工夫で獲得してきた様々なことを、自分だけの力で獲得してきたと思っているのです。

反抗期ならではの思考ですが、自分以外の思いに気が付けないのが、アスペルガー症候群の特徴です。

思春期を迎えるまでが、私が支援できる期間だったんだと、今になって気付きました。

太郎自身が、自分のアスペルガーな脳みと付き合い、工夫をし、自ら援助を求めたり、我慢したり、楽しんだりできるようになることが、これからの太郎の課題です。

無事に思春期を迎えて、大人になろうともがけるまでになったということは、私の下地作りが成功したんだと、これまでの自分の支援を自己評価しておきたいと思います。

支援が間に合わなかった部分は申し訳ないけど、これから自分でなんとか乗り切っていけますようにと、祈るような心境です。

受け入れやすい方法を探す

子供のころの支援の話に戻ります。

幸い、発達障害や自閉症の研究や理解が進み、分かりやすい解説本もたくさん出版され始めた頃でした。

最近は「大人の発達障害」や「大人のアスペルガー症候群」という捉え方も定着して、参考にできる情報は、本当に充実してきたと感じます。

私は太郎を観察して、本の中に「当てはまる」部分を探しました。

太郎が陥りやすい誤解や、独特な視点や、認知の仕組みを、観察と実験を繰り返して探るのです。

それは、太郎のかんしゃくを減らすために必要なことでした。

何が出来なくて分かりづらいのかを知ることは、余計な手助けを避けて、できることを増やしていくことに役立ちます。

難しかったことが、成長するにつれて出来るようになっていくのは、とても嬉しいことでした。

本に書かれている取り入れられそうな手法は取りあえず試し、実験を繰り返して、「わが家の取り組み」に編集しました。

決して固定されたものではなく、例外もあれば、成長するにつれて「卒業」できた取り組みもたくさんあります。

今では、アスペルガー症候群の太郎自身が、取捨選択しようとしているのだと感じています。(当然、失敗ばかりですが、私は口出しするのをグッと我慢しています。)

手助けする方法は、気軽にしなやかに取り入れてみる

アスペルガー症候群の子供と向き合うための「作戦」を立てるためには、観察が必要になります。

子供の成長(自分の老化)に合わせて、作戦を見直す必要があるので、参考にできる資料を探し続けました。

参考にできるものは、その気になれば意外にたくさん見つかりますが、自分たち用に編集する必要があります。

しなやかに、気軽に取り入れてみます。

自分で考え出したことには執着して「間違ってない!」と頑固になってしまいそうですが、本から「借用」したことは、変換が簡単です。

子供を観察することに慣れて来ると、子供の反応が良い方向に向かったかどうかが、評価できるようになります。

上手くいかなかったら、その方法はさっさと止めてしまいます。

そのうちにしっくりする時が来たら、再度試したりもします。

アスペルガー症候群の太郎が混乱しないように、「これをやってみる。」とか「あれはやっぱりやめた。」ということを、意識して伝えていた時期もあります。

何か、ものすごく特別なことをしているように受け取られるかもしれませんが、案外そうでもありません。

誰にでも同じように接する

発達障害の子供を手助けする手法は、多くの子供たちをフォローしてしまいます。

それぞれが成長する過程で、バラけているそれぞれの弱点をすくい上げられるのでしょう。

家庭内で、アスペルガー症候群の太郎と次男への対応を使い分けられるような器用さを、私は持ち合わせていませんし、子供たちの友達が家に遊びに来てくれるので、みんな同じように接します。

自分の子供に対する関わり方を、他の子供にもしていると、いつのまにか仲良くなれます。

授業参観や役員の仕事で学校に行くと、子供たちがとてもなついてくれているので、保護者ではなく学校関係者だと思われてしまったこともあります。

動物園や水族館では、我が家の子供たちと話しながら廻っていると、いつのまにか他の子供たちも混ざっていて、楽しく観察したりすることになります。

私がスタッフではないと分かった時の親御さんの表情は、かなり微妙ですが・・・。

成長とともに、親の目や手が届かない時間や場所が増えていっても、周囲の方々に恵まれて、太郎は温かい指導をたくさんいただきました。

担任になった先生方の大抵は、太郎のように発達にバランスを欠いた子供たちに、上手に関わるスキルを持っておられました。(太郎が不登校になった時の担任の先生は、残念ながら違ったのですが・・・。)

それは、小学校の先生らしい、独特の分かりやすい話し方であったり、生来の気質として持っていたり、職業的に習得された知識や経験も含めた、当意即妙の合わせ技の数々で、太郎を支えてくれました。

アスペルガーをタブー視しない

我が家では、「アスピー」という造語を使用しています。

「アスペルガー症候群の子供」とか「アスペルガー症候群の性質」という感じで使用します。

「アスペルガー症候群」という言葉を避けていては、太郎との話し合いが複雑になりすぎました。

次男が大きくなってきてからは、太郎との関わりの中で、理不尽な思いをさせることが増えてしまったので、太郎の思いやアスペルガー症候群の特徴を、次男に説明してやる必要がありました。

「アスペルガー症候群」という言葉を連呼するのは、お互いに気が滅入りそうだったので、「アスピー」と可愛く呼んでみようと思ったのです。

「親はなくとも子は育つ」「子どもは放っておいても育つもの」という表現は、アスペルガーという特徴のある太郎には、当てはまりづらいです。

次男の育ちにとっても、アスペルガーな兄と同じ屋根の下で暮らしている限り、よその家庭ではありえない(であろう)事態が発生するので、放っておいたら歪んでしまいます。

家庭内での公平を保つためでもありましたが、太郎のアスペルガーを、家庭内でタブー視せずに率直に話すことは、次男の成長にもとても有効だったと思っています。

次男は、「放っておいても」のタイプに近いと思いますが、のびのびとしつつも、思いやりのある対応ができる子に育ってくれています。