紙上に兵を談ず(しじょうにへいをだんず)
「紙上に兵を談ず」の意味
実践を伴わず、役に立たないこと。
机上の空論。
「紙上に兵を談ず」の語源・由来
「紙上に兵を談ず」の語源は、「史記」廉頗・藺相如列伝にある、以下の故事が由来になっています。
趙は、廉頗(れんぱ)を将軍として秦と戦っていましたが、秦軍がたびたび趙軍を破っていたので、趙は守りを固めて防衛に徹しました。
秦は、しばしば趙に挑発をしかけますが、廉頗は決してその挑発には乗りませんでした。
そこで秦は趙にスパイを送り込み、
「秦は、名将軍であった趙奢(ちょうしゃ)の息子の趙括(ちょうかつ)が将軍になることを最も恐れている。」
ということを、趙王の耳にいれさせました。
これを信じた趙王は、将軍を廉頗から趙括に変えることにしました。
そのことを知った藺相如(りんしょうじょ)が、王に言いました。
「王は、名が知られていることで趙括を将軍にしようとしていますが、これは琴の弦を琴に貼り付けて弾くようなものです。
趙括は、父から兵法を学んだに過ぎません。
実戦で臨機応変に対応することはできないのです。」
しかし、趙王は聞き入れず、趙括を将軍にしました。
趙括は、幼いときから兵法を学び、兵術について語れば彼に勝てるものはありませんでした。
父の趙奢と兵法論を戦わせたときも、趙奢を言い負かしていました。
しかし、趙奢は決して息子をほめることはありませんでした。
趙括の母がその理由を尋ねると、趙奢はこう答えました。
「戦は命がけだ。
しかし、趙括はこれを軽々しく語る。
趙括が将軍とならなければよいが、もし将軍となれば、趙括は必ず趙軍を破滅させるであろう。」
秦軍は奇襲の兵を放ち、敗走すると見せかけ、すかさず趙軍の補給路を断ち、趙軍を二分させてしまいました。
1月以上が過ぎ、趙軍は飢えに苦しんでいました。
趙括は精鋭を率いて自ら討って出ましたが、あえなく秦軍の矢にたおれ、趙括の軍は敗れてしまったのです。