日本には、二十四節気や七十二候のほかに「雑節(ざっせつ)」という暦日があります。
雑節は、二十四節気や七十二候のように中国から伝わってきたものではなく、日本の生活や風習から生まれた、日本独自の暦日です。
主に、農作業に照らした季節の目安となっていて、二十四節気を補うというような意味合いがあり、一年を通して季節の移り変わりが、より的確に把握できます。
昔から、生活の中に溶け込んでいて、年中行事となっているものも多く、現在でも馴染み深いものが多いです。
雑節には、
・節分(せつぶん)
・彼岸(ひがん)
・社日(しゃにち)
・八十八夜(はちじゅうはちや)
・入梅(にゅうばい)
・半夏生(はんげしょう)
・土用(どよう)
・二百十日(にひゃくとおか)
・二百二十日(にひゃくはつか)
があります。
雑節
節分(せつぶん)
「節分」といえば、立春の前日(2月3日頃)が思い浮かびますが、節分は「せち分かれ」ともいわれ、本来は、季節の変わり目である「立春」「立夏」「立秋」「立冬」の前日をさし、年に4回あります。
それが、現在のように、立春の前日だけが「節分」として知られるようになったのは、旧暦では、春から新しい年が始まていたので、立春の前日の節分は、大晦日に相当する大事な日だったからです。
このため、立春の前日の節分が重要視されるようになり、一般的に、節分といえば「立春の前日」をさすようになりました。
昔は、季節の変わり目、特に年の変わり目には、邪気が入りやすいと考えられていたので、さまざまな邪気祓い行事が行われてきました。
節分ではおなじみの「豆まき」も、新年を迎えるための邪気祓い行事です。
彼岸(ひがん)
「彼岸」といえば、墓参りが思い浮かびますが、彼岸は、先祖や自然に感謝をささげる仏道精進の期間で、インドなど他の仏教国にはない、日本独自の仏教行事です。
彼岸は、春と秋の2回あり、春は、春分の日(3月21日頃)とその前後3日を合わせた7日間、秋は、秋分の日(9月23日頃)とその前後3日を合わせた7日間が「彼岸」で、彼岸の真ん中となる春分の日と秋分の日は、それぞれ、彼岸の「中日(ちゅうにち)」と呼ばれます。
農耕文化の日本では、昔から、昼の長さと夜の長さが同じになるこの時節に、自然の恵みに感謝をするという風習があり、これが、仏教の教えと結びついたと考えられています。
また、春の種まきや秋の収穫とも結びつき、自然に対する感謝や祈りが先祖に感謝する気持ちにもつながって、彼岸は、日本人にとって大切な行事となりました。
社日(しゃにち)
農耕文化の日本では、春と秋は、一年のうちでも、大きな節目の季節でした。
春は、一年の始まりで種まきの時期、秋は収穫の時期です。
この春と秋に、「社日(しゃにち)」と呼ばれる、節目の日があります。
「社日」は、春分(3月21日頃)と秋分(9月23日頃)に最も近い、戊(つちのえ)の日とされていて、春の社日は「春社」、秋の社日は「秋社」とも呼ばれ、産土神(うぶすながみ)(=土地を守る神様)をまつる日とされています。
春社には、五穀の種子を供えて豊作を祈り、秋社には、初穂を供えて収穫に感謝していました。
「戊の日」が「社日」とされますが、「戊」には「土」という意味合いがあり、「社」には「土地の守護神」という意味合いがあります。
社日の由来
社日は、中国から伝わってきた風習が、日本独自の風習として定着していったものだといわれています。
中国では、「社」は土の神をさし、社日は、その「社」をまつる日とされ、春の社日には豊作を祈り、秋の社日には収穫に感謝していたとされます。
この風習が日本に伝わってきて、日本に古くからある、地神信仰や田の神信仰と融合し、日本独特の風習として「社日」の風習が根付いていったといわれています。
社日の風習
社日には、豊作を祈ったり、収穫に感謝したりしますが、各地には、社日の日のいろいろな風習があります。
春の社日は「地神降り」、秋の社日は「地神昇り」とも呼ばれ、地神を祭る「地神講(じしんこう)」という行事が行われます。
社日にまつる「産土神」は、土地を守ってくれる「土の神」なので、社日には、農作業などの土をいじることを忌むという風習もあります。
また、社日の日に、鳥居のある神社に七社お参りする「社日参り」「社日詣」は、痛風除けやボケ封じになるといわれています。
春社の日に飲むお酒は「治聾酒(じろうしゅ)」と呼ばれ、春社の日に酒を飲むと、耳の障害が治るという言い伝えもあります。
社日には、いろいろな風習や言い伝えがあります。
八十八夜(はちじゅうはちや)
「八十八夜」は、立春から数えて88日目に当たる日で、毎年5月2日頃になります。
八十八夜は、季節が春から夏へ移っていく節目の日で、夏の準備を始める縁起のいい日とされてきました。
「八十八夜の別れ霜」といわれるように、この頃から霜が降りなくなっていき、日ごとに夏めいた気候になっていきます。
茶摘みや稲の籾まきなど、農作業の目安にもされています。
「八十八夜の忘れ霜」ともいわれますが、これは、気温が急に下がって遅霜が降り、農作物に思いがけない被害を与えることを警戒した言葉です。
八十八夜の頃には、多くの農作物が新芽を出して、育ち始めるので、この時期に霜が降りると、農作物に大きな被害が出ることがあるからです。
ただ、八十八夜が過ぎれば、気候も安定していき、遅霜が降りることも少なくなるので、八十八夜は、農作業の目安とされ、この頃を境に、農家では本格的な農作業にとりかかっていきます。
八十八夜と茶摘み
八十八夜といえば、茶摘みのイメージが強いですが、これには、文部省唱歌の「茶摘み」が、学校で歌われていたことが大きく影響しています。
実際の茶摘みの時期は、九州地方から北上していくので、八十八夜の頃に茶摘みをするのは、主に関西地方が中心で、それ以外の地域では、八十八夜と茶摘みの時期はズレることが多いです。
昔から、八十八夜に摘んだお茶は、不老長寿の新茶として珍重されてきました。
入梅(にゅうばい)
暦の上で、梅雨が始まる日が「入梅」です。
農作業をする上で、雨期を知ることはとても重要になるので、雑節の一つとして「入梅」が設けられました。
「入梅」は、田植えの日を決める目安とされていました。
昔は、「芒種」以降の最初の壬(みずのえ)の日などとされていましたが、現在では、「太陽の黄経が80度に達した日」とされています。
暦の上での入梅は、毎年6月11日頃になり、この日から、1カ月~1カ月半くらいの期間が「梅雨」になります。
しかし、実際の梅雨入りの日は、それぞれの地域によって異なっていて、南の方から順に梅雨に入っていき、北海道では梅雨がありません。
毎年、気象庁から「梅雨入り」の発表がありますが、その判定には明確な基準がなく、雨や曇りの日が数日続き、その後の予報でも、雨や曇りの日が続くことが予想されるときに「梅雨入り」が発表されることが多いようです。
「入梅」に対し、梅雨明けすることは「出梅」といいます。
梅雨の語源
梅雨は、日本だけではなく、中国や韓国などでも生じる雨期です。
その語源は、中国の「梅の実が熟する頃の雨期」の呼び名である「梅雨(めいゆ)」が伝わってきたという説や、「雨でジメジメしてカビが生えやすい」という意味の「黴雨(ばいう)」が、語感が良くないので、季節に合った「梅」の字を使って「梅雨」に転じたという説などがあります。
また、「梅雨」が「つゆ」と呼ばれるようになったのは、水滴の「露(つゆ)」が語源になっていると考えられていますが、梅の実が熟して潰れる「潰ゆ(つゆ)」が語源になっているという説や、カビで物が損なわれる「費ゆ(つひゆ)」が語源になっているという説などもあります。
半夏生(はんげしょう)
雑節の「半夏生(はんげしょう)」は、七十二候の「半夏生(はんげしょうず)」から作られた暦日で、昔は、夏至(6月21日頃)から数えて11日目とされていましたが、現在では「太陽が黄経100度を通過する日」とされ、7月2日頃になります。
この時期に降る雨は「半夏雨(はんげあめ)」と呼ばれ、大雨になることが多いといわれます。
「半夏生」は、気候の変わる節目で、「田植えは、半夏生に入る前に終える」というように、農作業の大切な目安とされています。
「半夏半作」という言葉もあり、半夏以降に田植えをすると、秋の収穫が半減するともいわれます。
無事に田植えを終えると、半夏生の日の天気で、秋の収穫を占ったりもしていました。
この日以降は、天から毒気が降るともいわれ、井戸に蓋をして毒気を防いだり、この日に採った野菜は食べないというような風習もありました。
関西地方では、タコの足のように大地にしっかり根付くようにタコを食べたり、収穫した小麦で「半夏生餅」を作って田の神に供えたりするなど、各地にいろいろな風習が残っています。
半夏生の由来
「半夏生」の「半夏」は、「烏柄勺(からすびしゃく)」という薬草のことで、「半夏生」は、この薬草が生える時期を指した名称だといわれています。
七十二候でいう「半夏」とは全く別の植物の「半夏生」という名前の草もありますが、この半夏生の花が咲く時期だから「半夏生」だとする説もあります。
この半夏生は、別名「片白草(かたしろぐさ)」と呼ばれる毒草で、葉の一部を残して白く変化する様子から「半化粧」と呼ばれていたのが、転じて「半夏生」になったといわれています。
「半夏(烏柄杓)」と「半夏生」は、混同されることが多いですが、外見は全く異なっています。
土用(どよう)
「土用」とは、立春、立夏、立秋、立冬の前の約18日間のことをいいます。
陰陽五行説で、万物の素とされる「木・火・土・金・水」を四季にあてはめると、春は「木」、夏は「火」、秋は「金」、冬は「水」となり、残った「土」を立春、立夏、立秋、立冬の前の約18日間(前の季節の終わりの期間)にあてはめたものが土用です。
土用の最初の日を「土用入り」、最後の日を「土用明け」といいますが、土用は、次の季節へと移る前の「調整期間」というような意味合いといえます。
季節の変わり目の期間が土用ですが、夏の土用は、梅雨明けと重なることが多いこともあり、特に重要視され、「土用」といえば「夏の土用」をさすことが多くなりました。
夏の土用の期間は「暑中」と呼ばれ、暑中見舞いを出す時期でもあります。
土用の天気で豊凶を占う「土用三郎(どようさぶろう)」では、夏の土用に入って3日目が晴れならば豊作、雨ならば凶作とされます。
土用の丑の日
昔から、それぞれの日には、十二支が割り当てられていて、約18日間の土用の間にめぐってくる丑の日は「土用の丑の日」と呼ばれます。
「土用の丑の日」は、それぞれの季節ごとにありますが、一般に「土用の丑の日」といえば、夏の土用の丑の日をさします。
年によっては「土用の丑の日」が2度めぐってくることもありますが、2度目の丑の日は「二の丑」と呼ばれます。
夏バテ防止や疲労回復のため、土用の丑の日には、「丑湯」と呼ばれる、薬草を入れた風呂に入るという風習があります。
丑湯には、ドクダミ、緑茶、桃の葉など、さまざまな薬草が使われます。
土用の虫干し
夏の土用は、梅雨明けの時期と重なりますが、カビや虫の害を避けるため、衣類や書物に風を通して陰干する「土用の虫干し」が、よく行われていました。
梅干しの天日干しも、この時期に行われます。
土用にしてはいけないこと
土用の期間は、土を司る「土公神(どくしん)」という神様がいるので、土を動かしてはいけないとされてきました。
現在でも、家などを建築する際には、土を掘り起こしたりする基礎工事などは、土用の期間には行わないことが多いようです。
二百十日(にひゃくとおか)、二百二十日(にひゃくはつか)
立春(2月4日頃)から数えて210日目の9月1日頃が「二百十日(にひゃくとおか)」です。
この頃は、稲が開花して結実する重要な時期ですが、台風に見舞われることも多く、農作物に甚大な被害が出ることが多い時期でもあります。
農家にとって、十分に警戒をしないといけないこの日は、「厄日」「荒れ日」などとも呼ばれます。
「二百二十日(にひゃくはつか)」も、二百十日と同様の主旨の雑節です。
「二百十日」と「二百二十日」に、旧暦8月1日の「八朔(はっさく)」を加えた三日は、「農家の三大厄日」とされます。
二百十日は、海の状態を熟知した船乗りたちが、長年の経験によって「凶日」としたともいわれています。
現在のように、事前に台風の予測をすることができなかった昔の時代には、経験に基づいたこれらの日を目安にして、警戒を強めていました。
風雨の被害から農作物を守るために、風を鎮める儀式や祭りを行い、収穫の無事を祈っていました。
風祭り
「風祭り」は、農作物を風害から守るため、神様に祈願する祭りです。
各地で行われる風祭りですが、奈良県の竜田大社で行われる「風鎮大祭」や、富山県富山市の八尾地区で行われる「越中八尾・おわら風の盆」などが有名です。
天御柱(あめのみはしら)と国御柱(くにのみはしら)を祭神とする龍田大社は、古くから風の神として信仰されていました。
「風鎮大祭」は、7月の第一日曜日に行われますが、行事としては、その1週間前から始まっていて、1日2度の御饌祭(みけさい)に始まって、7日目の結願日(けちがんび)に風鎮大祭が行われます。
祭りの最後は、火のごちそうである「風神花火」をお供えして締めくくられます。
「越中八尾・おわら風の盆」は、毎年9月1日から3日にかけて行われている、富山県を代表する行事で、その独特の風情に人気があり、小説や歌などにもよく登場します。
越中八尾・おわら風の盆は、風を鎮める豊年祈願と盆踊りとが融合したもので、300年以上の歴史があるといわれています。